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歴史・事例にみる中央集権と地方分権の歩み

2009年1月31日発行の24号より

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わが国は古代、中央集権国家だった。中世の混乱期を経て、近世に独特の地方分権社会を確立する。19世紀、列強の脅威で中央集権国家に転換、短期間で世界の列強の仲間入りする。戦後も官僚主導型の中央集権で経済大国として成功した。だが今は行き詰まり、新しい地方分権のあり方を模索している。わが国の中央集権と地方分権の変遷をたどってみた。

「中央集権」と「地方分権」との融合

よくいわれる「中央集権」「地方分権」の「権(主権)」という語は、財源と権限における「主導権」の略で、「国家の統治権」を意味する「主権」とは異なる。したがって近代国家で、完全な「中央集権」はあり得ないし、完全な「地方分権」もありえない。独裁国家を除く世界のいずれの国も「中央集権」と「地方分権」の融合でなりたっている。

いま問われている地方分権は、国が持つ財源や権限を地方に移譲していくことで、極端にいえば国は本来の役割である外交、防衛、通貨管理などを重点に置き、福祉、教育、介護、医療などの住民に身近な行政サービスは地方自治体が担うようにしていくものだ。




明治政府から現在まで徹底した「中央集権型社会」のわが国の場合、地域のことは自立的に決定できる「地方分権型社会」へ移行する必要性が求められている。しかし中央政府が指揮命令権を持ったまま、地方を「出張所」として仕事を押し付けるケースが起こる可能性もある。このように地方統治の合理化としての「地方分権」を、「中央分権」と揶揄する有識者も少なくない。

アングロサクソン系 VS ヨーロッパ大陸系

地方分権をグローバルに見ると、アングロサクソン系は分権・分離型社会、ヨーロッパ大陸系は集権・融合型社会に大きく2分されるだろう。

アングロサクソンが18世紀末に新しくつくったアメリカ合衆国は地方分権的傾向が最も強い。もともと開拓者たちが開拓地に自分の力で学校をつくり、教会を建てた国だけに、今でも連邦政府の力が弱く、州が大きい自治権を持つ地方分権国家だ。2度の世界大戦と、その間の不況やニューディール政策期を経て、連邦政府の権限と影響力は大幅に拡大したものの、今でも州が独自の立法権を持ち、それぞれの憲法や軍(州兵)を所持している。

ドイツ連邦共和国は16の州(ラント)が強い自治権を持った連邦制で、地方分権の進んだ国家だ。州は独自の憲法と法体系を有し、独自の行政権を持ち、司法権も州の権限が強い。ゲマインデ(基礎自治体)は独自性も比較的強いが、基礎自治体同士の広域連合体として、クライス(郡)が結成されている。また、州政府の下部行政区画をクライス(県)と呼ぶ州もある。ドイツは小国家が分裂していた期間が長く、1871年に統一されたドイツ帝国時代も地方分権の気運が強かった。だが20世紀のナチ政権の時代になると、州議会は解散させられ、強力な中央集権・中央主権体制が敷かれ、アドルフ・ヒトラーの独裁政権を作った。戦後のドイツ連邦共和国で地方分権が進んだのは、ナチ政権の再来を防ぐ意味と、ドイツの大国化を避けたい連合国の思惑もあった。

大和王朝の中央集権は、唐がモデル

わが国の場合、7世紀に大和王朝が強力な中央集権国家を作り上げ、17世紀に江戸幕府が地方分権体制を盤石なものにし、さらに19世紀後半に明治政府が再び中央集権体制に戻すというように、二転三転した。この背景には常に外国からの影響があった。

大和王朝が全国統一しても6世紀までは、各地の国造をはじめとして、地方豪族の分立状態だった。九州の磐井の反乱(528年)に代表されるように、必ずしもこれらの広域な国全体が一体的に統治されていたわけではない。大宝律令(702年)、養老律令(718年)を公布して、律令で全国の農地や人間を統一する律令国家が完成した。農民は班田収授で一定の耕地が平等に貸し与えられ、平等に租税が取られた。また、公用のための労役や、朝鮮半島からの侵略を守る兵役(防人)の義務もあった。

律とは刑法で、令とは行政法のことである。律令のモデルは中国の唐だったが、モデル以上に整った官庁・官人の組織をつくり上げた。この官僚組織が、約1000年後の明治政府になって復活する。

江戸期の地方分権は『地方主権』に近い

律令国家にもほころびがあった。墾田永年私財法(743年)などを利用して貴族・豪族や寺院などが荘園を持ち大土地所有者になる。その荘園を足がかりに武士が台頭し、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開設する。その後、室町幕府や戦国時代を経て江戸幕府に至る。幕府は一応、中央政府だが地方の主権はあくまで各藩にある。徳川氏は各藩主を束ねる「棟梁」にすぎない。農民は税(年貢)を藩に収める。藩の大名には江戸への参勤交代や幕府の公共事業の負担などの義務があったが、藩内の行政や殖産興業、さらに文化や学問などすべてが藩の裁量で行われた。この日本独特の封建制度は「地方分権」というより「地方主権」といった方がいいだろう。この「地方主権」のあり方がよほど日本人の体質に合っていたのだろう。江戸幕府の「主権」は19世紀半ばの「黒船来航」まで続く。

「地方主権」であった証左のひとつが軍事力だろう。薩摩は幕府の手を借りずにイギリス艦隊と戦い、長州は4カ国連合艦隊と下関戦争を起こし、やがては軍事力で江戸幕府を倒すことになる。そのエネルギーとなったのは、西欧の植民地に組み込まれることへの危機感、もしくは自国を守る愛国心からだった。

明治政府の中央集権化で一流国へ


明治以降の中央主権制はいまなお続く

明治維新で廃藩置県(1871年)が実施されると、日本人はそれまでの「地方分権」をあっさりと投げ捨て、強固な中央集権体制を作り上げた。そうしなければ西欧列強と対等に付き合えないからだ。「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに猛烈な勢いで西欧文明を吸収したが、強力な官僚組織を確立するために1000年前の律令体制を巧みに利用した。

明治政府の3改革は、学制と地租改正と徴兵令である。この3改革で統一国家の、教育・軍事・財政の基盤がつくられた。特に地租改正は、中央集権政府の役人、近代的な常備軍および警察制度の整備をするための財政に不可欠だった。税は中央政府がプールした。地方の県知事も政府から派遣された官僚だった。学問も、義務教育は文部省の管轄に置かれ、国が画一的な教科書を作成した。すべてのものを中央官僚が管理、政府がプールして地方に流した。

この中央集権体制は一時的には成功したかに見えた。日清戦争、日露戦争に勝利し、世界の一流国の仲間に入れたからだ。しかし、成功例に溺れ海外に版図を広げ過ぎ、太平洋戦争で日本の国土は焦土と化した。

戦後も続く中央集権制をどうするか

敗戦で日本が焦土となっても、官僚主導型の中央集権体制は生き残った。日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は民主化や地方自治の強化に力を入れたが、日本が独立してGHQが引き揚げていくと、また元に戻った。官僚主導で戦後の経済復興に猛進し、1955年には経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、わが国は高度経済成長期に突入した。政府は「国土の均衡ある発展」「福祉国家」をスローガンのもとに、税収が少ない地方自治体には地方交付税や補助金を増やし、地方への財政フローの確保により、地方の生活基盤の整備が進んだ。

このため国民1人当たりのGDPは世界一になるまで成長した。この成功で、地方は唯々諾々と政府の方針に従い続けた。しかし、高度成長期が終わると、このシステムは行き詰まった。国の補助金で無駄な施設を造りすぎて財政破たんした夕張市が、代表例である。


長期債務残高等の推移

気がつくと、国と地方の長期債務残高は天文学的数字になっていた。窮した政府は、「地方でできることは地方に」と、2000年4月には地方分権一括法により、機関委任事務制度を廃止、地方に権限の移譲を図った。2002年6月に「骨太の方針2006」で三位一体の改革を打ち出す。三位一体の改革とは、(1)国庫補助負担金の廃止・縮小 (2)税財源の地方への委譲 (3)地方交付税の一体的な見直し、である。この改革が地方分権をより推進していくための改革とすれば、まったく不十分という批判がある。政府が推進しようとする国の財政再建の理論だけが先行し、地方分権の推進の意思が感じられないからだ。そもそも財政改革なのか分権改革なのか疑問が残る。これから「この国のカタチ」をどう変えていくかが、いま問われている。(渋田 哲也)

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※当ページの内容は、2009年1月31日発行の24号に掲載されたものです。

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