フォーラム福岡

九大新キャンパスを母体に、胎動する九大学研都市

2005年10月1日発行の創刊7号より

「九大新キャンパスを母体に、胎動する九大学研都市」に対する皆様のご意見ご感想をお待ちしております。
コメント受付フォームよりお送りください。>> コメント受付フォーム

ワンポイントビュー

九州大学新キャンパスのオープンをきっかけに本格的に動き出した九州大学学研都市作り―――。九州大学にとっては創立以来1世紀におよぶ歴史のなかでも一大事業であり、社会的にも巨大プロジェクトとなっており、そして地域に与えるインパクトは大きい。九州大学における伊都キャンパスのオープンまで歩みを振り返りながら、今後、九州大学伊都キャンパスを中核に形成されていく、あたらしいタイプの学園都市である九州大学学術研究都市の全容に迫る。

統合・移転に先駆け、九大創立以来の大改革

創立以来の一大事業である新キャンパスへの統合・移転をすすめる九州大学は、統合・移転に先立ち、学内の大改革として大学院を研究組織と教育組織に分ける「学府・研究院制度」を導入した。この学府・研究院制度は、大学院の全学重点化にともない、研究機関としての大学院組織を「研究院」、教育機関としての大学院組織を「学府」という別々の組織に衣替えしたものだ。

大学院の組織を研究機関組織と教育機関組織に分けることで、「研究」と「教育」という異なるベクトルに対して、柔軟に組織を編成していこうとする制度といえる。組織の上では、研究院に教員、学府に大学院生、学部に学生がそれぞれ所属する。そして、研究院の教員が、学府や学部に出向して教育するスタイルを採用しているのだ。

このような制度は、東京大学をはじめ、京都大学、東北大学、横浜国立大学などでも部分的に導入しているものの、全学的に取り入れているのは九州大学が初めてだった。

創立時も資金難だった九大、産学官の連携で乗り切る

学府・研究院制度を導入した九州大学のルーツをたどると、1867年に福岡藩が西洋医学を教授する藩校として設立した賛生館までさかのぼる。その後、明治期に入って、帝国大学令公布をうけて、「九州にも帝国大学を…」という機運は高まる。福岡市、熊本市、長崎市との間で激しい誘致合戦が繰り広げられた。熾烈な競争の末、福岡市への設置で決着したのだ。

1900年の第14回帝国議会において、「九州東北帝国大学設置建議案」が可決され、1903年にひとまず京都帝国大学の一分科大学として福岡医科大学が開学した。帝国大学としての設置がすんなり、進まなかったのは、実は資金難によるものだった。

当時、逆風状態にあった九州帝国大学の設置を促したのは、意外にも足尾鉱毒事件で有名な古河財閥だった。古河財閥から「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の建設のために当時の金額で100万円にのぼる寄付の申し出があったのだ。この寄付金のうち約6割が九州帝国大学工科大学の建設資金に充てられ、さらに福岡県からの寄付金とを合わせて福岡市の地に九州帝国大学が1911年に誕生した。

昨今の財政難のなかで、九州大学の新キャンパスへの統合・移転には資金面での苦労が絶えないが、その創立当初においてももやはり財政面では大変だったのだ。そして、九州大学の前身となる帝国大学誕生の過程においても、産学官の協力で乗り切った側面がある。

元岡・桑原地区に移転決定までの歩み

新キャンパス配置図



キャンパス移転統合図

九州大学箱崎キャンパスを初めて訪れた人は、真上を飛び交う航空機が撒き散らす騒音に驚く。現在までの九州大学の主要キャンパスである箱崎キャンパスは、福岡空港の滑走路の延長線上に位置し、航空機騒音が長年の懸案となっている。

航路下に位置する箱崎キャンパスでは、1968年にはアメリカ軍のF4ファントム戦闘機がキャンパス内に墜落するという事件も起きた。この墜落事件を機に九州大学での学生運動に火がついたという経緯もある。

この事件以来、九州大学のキャンパス移転問題は、歴代学長の懸案事項となっていた。1970年代には、現筑紫キャンパスのある福岡県春日市および大野城市への移転計画もあったが、地元の反対で断念したこともある。

1990年6月に高橋良平学長(当時)の下、新キャンパス構想委員会(委員長・徳本鎮教授)、同年12月に新キャンパス策定専門委員会(國武豊喜教授)が発足した。新キャンパス策定専門委員会では、宗像地区、粕屋地区、香椎地区(現アイランドシティ)、元岡・桑原地区などの複数の候補地について検討を重ね、そして元岡・桑原地区を第一候補地として選定した。

《狭く》《古く》《使いにくい》、現キャンパスが抱える課題


新キャンパスの中心部に
位置するセンターゾーン(模型)

新キャンパス策定専門委員会による選定を踏まえて、1991年10月に元岡・桑原地区を第一候補地とする「新キャンパス移転構想(学長試案)」が、九州大学評議員会で承認された。

この新キャンパス移転構想では、当面の移転対象を六本松キャンパスおよび箱崎キャンパスとすることが記している。そして、現在地での再開発は不可能であること、さらに現在地の立地条件が狭隘となっている点に加え、航空機騒音で不適切であることを指摘している。

事実、箱崎キャンパスおよび六本松キャンパスのうち、築20年以上経過し、改築もしくは大規模な改修が必要な施設の比率は8割を超え、老朽化が進んでいるといわれて久しい。

また、施設が狭隘なものになっていると指摘している点についても、箱崎キャンパスおよび六本松キャンパスでの建物必要面積に対して不足している要整備面積の比率は、なんと30パーセントないし40パーセントにおよぶ。

特に六本松キャンパスは、前身だった旧制福岡高等学校における一学年定員が当初わずか200人という規模だった敷地にかかわらず、現在では約5000人もの学生が在籍するなど、極めて狭隘なものとなっている。

新キャンパスは従来の3・5倍、敷地275ヘクタール


新キャンパス中心部の俯瞰図

1991年10月に元岡・桑原地区へ移転の決定をして以来、14年が経過して今年10月に第1期開校を迎える。今回の工学系の第一陣を皮切りとする新キャンパスへの統合・移転の対象となっているのは、箱崎キャンパス(約46ヘクタール)、六本松キャンパス(約9ヘクタール)、農学部付属農場がある原地区(約24ヘクタール)で、その合計とした敷地面積は約80ヘクタールとなっている。


新キャンパス内のイメージパース

統合・移転先である伊都キャンパスは、275ヘクタールにおよび、従来の実に3倍半の規模だ。このうち丘陵地などの自然をそのまま残した保全緑地の約100ヘクタールを除いた実質的な敷地面積でも約175ヘクタールとなり、移転前に比べても2倍強の広さをほこる。

敷地内に計画している各施設の延床面積は、文系施設で約12万平方メートル、工学系施設が約16万平方メートル、理学系施設が約6万平方メートル、農学系施設が約5万平方メートル、本部施設(本部事務施設および全学教育施設など)が約10万平方メートル、運動施設および農場施設が約1万平方メートルで、合計して約50万平方メートルとなり、福岡市役所本庁舎の約8倍強に匹敵する規模だ。一方、移転する人員は計画上、学生が約1万2400人、教職員が約3200人の合計約1万5600人となっている。

最長15年での新キャンパスへの移転

当初の計画では、新キャンパスへの移転期間は開始から概ね10年間だったが、昨年9月にスケジュールが見直され、移転期間は最長15年となった。


九州大学新キャンパス
計画推進室副室長
坂井猛
九州大学大学院助教授

あたらしい移転スケジュールでは、まず工学系が移転するのが第1ステージとなっている。第1ステージに続く第2ステージでは、用地の再取得を完了させたいとしている。その後、2014年に理学系から移転を再開するスケジュールとなっている。「当初、学内でのシミュレーションでおよそ10年を想定していたもので、実際の実施段階になって移転期間が15年となったものである。大学側として、前倒しもふくめた早期移転に努力している」と、九州大学新キャンパス計画推進室副室長を務める坂井猛・九州大学大学院助教授は、コメントする。

このような移転完了の時期が長引くことによって、新キャンパス周辺の学術研究都市づくりが停滞する恐れを指摘する声もあるのも事実だ。このようななか、九州大学学術研究都市推進協議会(会長 鎌田迪貞九州・山口経済連合会会長)では、「国の手厚い予算措置、六本松キャンパスの跡地処分収入などの要因があれば、移転スケジュールの前倒しは可能と考えられる」とし、「計画的かつ重点的な予算措置」と「九州大学六本松地区の跡地処分収入の統合移転事業への全面的活用」などを趣旨とする要望書を提出している。

産学官が一体となって取り組む九州大学学術研究都市構想とは


新キャンパスでの配置図

九州大学における先導的な大学改革と糸島半島への新キャンパス移転を契機に大学や自治体、産業界が連携して新しい学術研究都市づくりに取り組み、21世紀にふさわしい「知の拠点」にしていこうというのが九州大学学術研究都市構想だ。

あらたに取り組む学術研究都市づくりの理念として、「共生社会の実現」「世界・アジアとの交流」「創造性の発揮」 「新産業の発展」 を掲げる。そして、この理念を具体化に向けての方向性として、「知の交流・創造活動を促進する地域科学技術システムの構築」と「知・住・悠の舞台となる快適空間の形成」の2つを核として打ち出す。

4つの理念と2つの核をもとに九州大学伊都キャンパスの中心部に位置するセンター・ゾーンと隣接する周辺地区を一体的に整備して、学術研究都市の「顔」「シンボル」とする考えだ。このエリアをタウン・オン・キャンパスと名づけ、地域に開かれた大学づくりを目指している。

分散型地域核(ほたる)をはじめとする多彩な試み


九州大学学術研究都市イメージ図

九州大学学術研究都市の「顔」であり、「シンボル」であるタウン・オン・キャンパスを中心に、さまざまな研究開発機能や交流機能、さらに国際交流や地域交流をサポートする機能なども整備して、新しい学術研究都市のなかに「知の中央ステーション」(HST=Human Science and Technology Station)をつくりだそうという構想もある。

一方、学術研究都市のコアゾーンからスピンオフするベンチャー企業、新規に進出を希望する研究開発企業、さらにはあらたに居住していく受け皿として分散型地域核(ほたる)を展開する計画だ。かつての大規模開発型に代わる21世紀のモデル開発として、糸島地域の自然や景観と共存できる試みとしても分散型地域核(ほたる)は注目を集めている。

このように九州大学伊都キャンパスを中核として、従来の大学キャンパスには無かった新しい機能や役割などを産学官の取り組みを通じて、付け加えた全くあたらしい学術研究都市づくりを実現していく。そして、《知・住・悠》の舞台となる快適空間のデザインを掲げる九州大学学術研究都市では、糸島半島を中心とするエリアを1次圏と設定している。さらに九州大学伊都キャンパスから半日行動圏となる福岡市から唐津市までの地域を2次圏として想定しているのだ。

九州大学学術研究都市では、大学を核にしたまちづくりとしてのタウン・オン・キャンパスの整備をはじめ、環境に配慮した分散型地域核(ほたる)の開設、自然豊かな田園ゾーンの保全、リサーチパークの展開、知的な生活環境の整備などの試みを通じて、巨大な《知の創造空間》の実現に向けて、いま胎動している。

依然くすぶる懸念の声、問われる実現への実行力

九州大学学術研究都市構想が、具体的な実現に向けて、大きく動き出している一方で、「今更、学園都市はいらない。筑波の失敗、大学の都心回帰を理解していない」という市民からの手厳しい意見があるのも事実だ。このような声に対して、行政当局である福岡市では、「九州大学学術研究都市構想は、自然に恵まれた地域の特性を生かしながら産学官民による学術研究機能の整備・展開などにより、地域の『知の拠点』の構築をめざすものである」との見解を新・基本計画においてあきらかにしている。

一方、「都心展開といいながら、なぜ、九大の移転を支援するのか」という市民の疑問についても、同じく「豊かな環境の中での世界的レベルの研究・教育拠点づくりを目指す新しい大学づくりが、本市の発展にとって不可欠なため、移転を支援しています。また、大学の都心展開については、大学と市民との交流を促進するため、支援を行います」と行政当局としての姿勢を示している。

九州大学学術研究都市は、これまでになかった大学を中核とした、あたらしいスタイルによるまちづくりであり、ひとつのライフスタイルとしての実験の場でもある。まちづくりにおいては、その土地に暮らすひとびとの声を反映させる仕組みづくりと仕掛けが必要である。これら一つひとつの取り組みを積み重ねて、大学を核とした《あたらしいまちづくり》を産学官、そして市民の手でつくり上げていくことが、今後ますます重要になってくる。(近藤益弘)

「九大新キャンパスを母体に、胎動する九大学研都市」に対する皆様のご意見ご感想をお待ちしております。
コメント受付フォームよりお送りください。>> コメント受付フォーム

※当ページの内容は、2005年10月1日発行の創刊7号に掲載されたものです。

<< トップページへ

Copyright © 2005 Forum Fukuoka. All Rights Reserved.

推奨ブラウザ:IE6以上・NN7以上・Safari・Firefox